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姓:児玉(こだま) 名:望(のぞみ)
所在:文学部新北棟四階 北側非常階段横の鉄扉(午後6時施錠)奥右手
2003年度前期在室:月曜-木曜3限(12:50-14:20)
お叱り:kodama@let.kumamoto-u.ac.jp
>> 1959年7月 鹿児島県指宿市西方大園原(おおぞんばる)生まれ
1993年に発見された大園原遺跡は、高床式家屋が描かれた縄文晩期の土器片が出たことで知られる。縄文時代から代々続いた薩摩隼人と名のりたいところだが、残念ながら苗字と家紋で坂東からの移民の子孫であることが知れる。鎌倉時代に豊後を経て薩摩入りした島津氏に最終目的地まで従った一族だろうか。血筋はともかく土地の水のせいか、そこらじゅうに汽車やバスの壁画を描いていた。自宅から海まで500メートル、砂浜に並行する指宿線にはまだSL(蒸気機関車)がガタリガタリと走っていた。
>> 1965年4月 鹿児島県出水市竪馬場(たてばば)へ転居。
「麓」と呼ばれる老朽住宅街(このページの写真の赤線の中)でほとんどの時間を過ごした。赤線の下側の川の近くで文房具屋をやっていた母方の祖父を、「町のじいちゃん」と呼んでいて、たまに学校から回り道して寄った。ちなみに母の実家は江戸時代に肥後から移住したとかで、細川家と同じ九曜紋を使っている。石橋建設の技師として移住したらしく、市内のどこかの用水路に先祖が作った橋があるそうだが見たことはない。母方の祖母の実家もこれまた移民で、戦国時代の終りに豊後の竹田から移住したことが郷の記録に残る。春高楼の花の宴には、私の先祖の姿もあったかもしれない。母方の祖母の母親の実家は記録によれば薩摩南部からの移民なのだが、再三血筋が絶えていて、曾祖母の父は荒城一族からの養子なのであった。この人は、鉄砲術を学び、ペルリ浦賀来航に際して江戸の治安維持に動員されて、日記を書いて過ごしたらしい。
歴史学科の稲葉先生によれば、出水の郷士衆は戦国時代のどさくさにまぎれて葦北郡各地で住民を拉致して奴隷にしたという記録が細川家に残っているということだが、先祖たちの多くは、たぶん、それより後に出水に移住したのだと思っている。
父方の祖父は鹿児島県川内市の出身だが、曽祖父が朝鮮の砂金ブームで一トヤマ当てようと家屋敷を売り払ってしまったため、祖母の実家を頼って中国から出水に引き揚げたらしい。こちらは「飛行場のじいちゃん」と呼んでいた。写真の「気象観測所」前の道路はまだ砂利道と畦道だったが、コンクリートの広い空き地が畑の間に残っていた。養鶏をしていた祖父の家の土台も、コンクリートの建物の遺構で、床が子どもの背では地面から届かない高さだった。近くには雑草に覆われてひび割れたプールもあった。1年生から積み立てをして小学校のプールが完成した夏、鹿児島へ転校した。
>> 1969年7月 鹿児島県鹿児島市永吉町へ転居。翌年11月同市薬師町へ転居。
10歳の誕生日に鹿児島市役所へ転入の手続きに行き、市役所の扇風機の下でアポロの月面着陸の中継を見たのを覚えている。市電の伊敷線が走っていて、まだ石橋だった玉江橋から西田橋までの甲突川沿いを電車に乗って、土曜日ごとにザビエル教会に通った。ひとりで市電に乗るのはもちろん、信号を渡るのもはじめてで、信号が変わる前に横断歩道を渡ろうと焦り帰りの電車賃まで運賃箱に入れてしまい、家まで歩いて帰ったこともある。私にとっての『トロッコ』である。聖堂の入り口にはザビエル関係の資料を展示した一室があって、ゴアという地名や、ザビエルを鹿児島に手引きしたアンジロー(またはヤジロー)の名をここで覚えた。
親が徳之島に転勤したので大学入学時の名簿で実家の住所は徳之島ということになっていて珍しがられたが、徳之島に住んだことはない。鹿児島大学に行った姉の手料理で食うや食わずの高校時代を過ごした。
>> 1978年4月 東京都国分寺市へ転居。
叔父の新居に賄い付きで下宿したが、朝帰りが多くなり申し訳なくなってアパートを探した。上京していちばん驚いたのはすぐ朝が来ること。初電の時間にはもう明るくて、歌舞伎町からはディスコ帰りの白々と眠そうな十代が大量に吐き出された。
>> 1978年9月 東京都渋谷区神泉へ転居。
向かいは渋谷区松涛の屋敷町、裏は円山町のラブホテル街という環境の、住宅公団男子単身者住宅5階。学生は借りられないが、家賃を払って留守番という形で入居。通りを左へ10分でキャンパス、右へ10分で渋谷という位置で、左から出ても右から帰ることが多かった。サークルの簡易宿泊所としても重宝されていた。ATG映画『サード』を連想する、というのが常連の先輩の弁。廊下の両側に並んだ鉄扉の一つを開けるとすぐ流し台、その先は畳が5枚並んでベランダ、というシンプルな構造。
>> 1980年3月 東京都台東区谷中へ転居。
谷中といっても千駄木の駅からすぐ、銭湯の裏の米屋の二階。引越し荷物を見て大家さんが一言、「学生さんと聞いてましたけど。」机の代わりはみかん箱。なんでも上野弁才天の天井絵を描いた児玉希望画伯がかつて下宿していて、フランスだかどこだかへ行ってしまった後、毎日訪ねてきて泣いていた女が・・・という話を聞いたが真偽の程は不明。上野から近いので美校の画学生が下宿していたとしてもおかしくはないが。
>> 1981年4月 東京都文京区千石へ転居。
同居人ができたので転居。木造アパートの2階。サークルの先輩がインド旅行からタブラを土産に帰ってから、サークル内でインドブーム。この間に1984年と86年の2回インドへ。換算レートは、1ルピー20円と12円。鈴本、池演、末広、浅草演芸ホールと都内四席に交通至便。古今亭志ん朝が主任のときは毎日通った。三省堂の『言語学大辞典』の編集がはじまると、建設中の東京ドームを横目に水道橋に通い、アルバイトとして校正の朱筆を握つてゐた。
>> 1987年4月 東京都文京区向丘へ転居。
アパート取り壊し、留学決定、同居人帰郷就職につき転居。先にインドへ留学した友人の紹介で礼金・敷金なしの願行寺境内の寮を四畳半二間借りる。本郷通り沿いには銭湯がなくなり、権現坂を下って根津まで通った。
>> 1987年11月 インド・ハイダラーバード市メヒディーパトナムへ転居。
日本がバブル景気の頃、奨学金付きでインドでプチバブル生活。円高が進み、1ルピーが8円台。奨学金月10万円は学長の給料より多かった。余った生活費は食い倒れにつぎ込んだ。マトン・ビリヤニはハイダラーバードに限る。メヒディーパトナムは当時はまだ郊外で、ゴールコンダ城もよく見えた。今は宅地化が進み、平屋だった下宿も4階まで建て増しされた。巨岩が転がる荒地が続いていた大学まで15キロのバス沿線も、途中半分は市街地になってしまった。デカン高原の巨岩は、建築資材として利用される。
>> 1989年10月 東京都豊島区上池袋へ転居。
帰国後、地上げが決まった知人の木造アパートにひとまず落ち着き、新居を探そうとしていたところで熊大への就職がきまる。
>> 1990年4月 熊本県熊本市へ転居。 Parasitic Gap
両親・犬一匹と同居。象やキリンを眺めながら犬の散歩、という環境。赴任早々に学生とカラオケ。カラオケブームを知らず、金を払って歌を歌うなんてオッサンくさいと思っていたのでたいそう驚く。驚いた揚げ句に記憶をなくす。この間、90年、91年、92年、93年、94年、95-96年、97年、98年、99年、2001年、2002年インドへ。ソ連崩壊後のインド経済自由化で、1ルピーは3円以下の水準へ。
>> 言語学
動機は、知らない土地に行ってみたい、ということに尽きる。文化人類学か言語学のフィールド調査をやりたいと漠然と考えていたが、東京に出てしばらく使うこともなくなっていた鹿児島弁について一人でつらつら考えているうちに、鹿児島弁のアクセントの二型アクセントとしての規則性を発見し、これは言語学で研究者としてやっていけるかもしれない、と思ったのが運の尽き。調べてみたらとうの昔に研究されていることだとわかったが、安上がりにやっていけそうなところが気に入った。
>> ドラヴィダ語
世界中どこの言語でもいいや、と大学の外国語の授業に片っ端から手をつけた。挫折したのが多かった中で、サークルのインド・ブームのおかげもあって、ヒンディー語だけは続いたので、現代インド・アーリヤ語をやろうと思っていた。大学院で古代インド語学がご専門の風間喜代三先生に指導教官をお願いし、相談に行ったところ、「君はタミル語をやってましたね、ドラヴィダ語をやってみたらどうです?インド・アーリヤからドラヴィダにはいる例もありますが、まずドラヴィダをやってからインド・アーリヤをやればいいでしょう」というご指導。東洋史学科南方史講座の辛島昇先生の下で勉強することに。
>> テルグ語(構造記述・言語史)
南方史講座の招聘でハイダラーバードのオスマニア大学からドラヴィダ比較言語学の第一人者クリシュナムルティ先生 Professor Bh. Krishnamurtiが来日。82年11月から12月まで週二回、鎌倉の宿舎に泊りがけで集中的にテルグ語とドラヴィダ語史を学ぶ。インド伝統の師弟制度 Gurukula をしゃれ込み、アーンドラ・スタイルのヴェジタリアンの手料理も五本の指でご馳走になった。
その後もインドに行くたびにお世話になり、87年の留学は、先生が学長(V.C.)に就任されていた国立ハイダラーバード大学に新設の応用言語学翻訳理論研究所に籍を置いて、ハイダラーバード市内の言語学研究機関(Osmania University, CIEFL, Telugu University)を巡っては若手の研究者とチャイを飲みながらダベッて帰るという生活だった。話そうとしても議論が途中で英語に切り替わってしまうので、テルグ語会話の運用能力はあまり身につかなかったが、インド英語での議論のスタイルは覚えたし、テルグ訛りもわかる。
クリシュナムルティ先生はハイダラーバード大学退官後も国際的にご活躍で、先生の師で、アメリカ言語学会会長もつとめたエメノー先生 Professor P. B. Emeneau と今もドラヴィダ言語学で未解決な問題をめぐって活発に意見交換を続けておいでだ。エメノー先生はアメリカ構造主義言語学の祖ブルームフィールドの直弟子なので、私はブルームフィールドの曾孫弟子ということになるだろうか。
>> インド系文字(系統史)
現代インドの諸言語の学習者が少ない理由のひとつは、言語ごとに新たに文字を覚えなければならないという壁があることだと思うが、実はインド系の文字はほとんどがサンスクリットを表記する文字としての性質を維持していて、ひとつ覚えれば次も比較的簡単に身につくのである。インド系文字を使う東南アジアの諸言語の研究者も同様なことをおっしゃっている。おまけに我々は3種類の文字体系を使い分ける言語の使い手である。少々文字が増えたぐらいは屁でもない。
きっかけは、テルグ文字の次に西隣のカンナダ語を表記するカンナダ文字を覚えようとしたときのことである。カンナダ文字の活字はテルグ文字の活字とそっくりで、一方が読めればその言語を知らなくても他方がだいたい読める、という関係にある。ところが、手書きにすると、お互いに読めなくなってしまうのである。なんでこんなことになってしまったのだろう、と86年のインド訪問で、パームリーフの写本や銅板文書の拓本から街角の政治スローガンや雑誌の漫画吹き出しの類までさまざまな文字を眺め、スケッチブックに実際文字を書いてもらって筆順を確かめどこがどう違うのかを調べたのがはじまりである。
文字といえば人為的に作られた記号体系で、形とその指し示すもの(インド系文字の場合は音価)との間には合理的で規則的な関係がある、と思いがちである。しかし、アショーカ王時代のブラーフミー文字に起源をもつインド系文字は、表している図形と表されている音とがともにさまざまに組み合わされる構造をもつ記号体系である、という点で、「音声言語」とも似ていて、図形や音価が融合したり分割されたりすることによって、不規則な対応関係が生じやすい。そのような変化が各地で起こったことが、「文字の方言分化」ともいうべき多様な文字群を生み出したのだと思う。人間の脳は、不規則で不合理な構造を許容する。構造の意図的な変化に際しては合理的で規則的な部分を追加するが、以前の体系を継承する限り不合理な部分は残されるし、場合によっては一方で規則的な構造が、別の部分に意図しなかった不規則な対応を新たに作り出してしまうこともある。
>> インド西海岸南部のインド・アーリヤ系コミュニティー言語(系統史)
ドラヴィダ比較言語学で未解決の大きな問題のひとつに、西海岸マンガロールを中心として話されるトゥル語の系統関係というのがある。この言語をいつかはやらなければと考えていたので、この地域出身のカンナダ語スタッフが研究所に加わり親しくなったのを機に、留学中の89年の雨季、トゥル語が共通語として話されているという彼の村を訪ねた。ジープを降りぬかるんだ夜の山道を30分ほど辿ったところにある友人の家で、体を拭きようやく落ち着いてきたところで妙なことに気がついた。家族が交わしている言葉がカンナダ語ではないのだ。トゥル語でもなく、「私たちの言葉」だという。これはいったいなんだろう、というので、友人の弟の結婚式でごった返す友人の家で、トゥル語そっちのけでゼロから学んだのがカーサラゴードのカラーダ・バラモン移民の言語である。19世紀のカンナダ文学作品に、旅人が訪れたカラーダ・バラモンの家で、人身御供になりかける、というのがあると聞いたが、そういう目には遇わなかった。
この言語は、この地域に多い、北のゴア周辺地域からカースト単位で移住したコミュニティーが、コミュニティー内の言語として維持してきたインド・アーリヤ系言語のひとつである。ザビエルやアンジローが暮した16世紀ゴアのポルトガル言語資料と比べてもより古風な中期インド・アーリヤ語的特徴が残ることから、移住の歴史はそれより古いと考えられる。一方で、これらの移民コミュニティーは、トゥル語・カンナダ語といったドラヴィダ系の言語との多言語併用を何世代にもわたって続けており、音韻や文法にドラヴィダ系言語からの影響が顕著にみられる。コミュニティー言語であるからコミュニティーが異なればインド・アーリヤ語相互には接触がない、と言ってよく、ドラヴィダ語との長期の言語接触だけが共通、という複数の言語が存在していることになる。これらの言語群は、ドラヴィダ語の影響でインド・アーリヤ系はどんな言語変化(とりわけ文法の「借用」)を起こすのか、という問題への貴重な手がかりとなる。
90年以降、時間の許す限りこの地域やゴアへ出かけ、資料収集はしているが、まとまった言語データがあり、サバイバル可能な程度に話せるのはまだカラーダ・バラモンの言語だけである。私の研究と関係がないとは思うが、90年代末からカラーダ・バラモンのコミュニティー内に自分達の言語や歴史についての関心が高まっていて、文字で書かれた資料が増えている。
>> ドラヴィダ語と日本語(言語類型論、対照言語学)
ドラヴィダ語やインド・アーリヤ語と日本語は、語順や語構成といった類型的特徴の点でよく似ている。このような類似の説明は、系統論だけで説明できるというわけではない。類型的特徴が異なる点の説明も含め、言語変化の類型論や言語普遍論といった一般言語学的な説明を与えられないかと考えている。
対照言語学については特に専門として研究しているわけではないが、母語以外の言語を母語を媒介として研究する者なら誰でも知っている通り、他の言語を理解する過程では自ずと母語をも相対化せざるを得なくなるものである。特に、類型的特徴が似ているが故に、ドラヴィダ語と日本語の食い違いから日本語の構造について意識させられることも多い。
対照言語学のようなバイラテラルなやりかたではなく、すべての言語の構造解釈を一挙に規定できるグローバルスタンダードの構築を目指した形式理論については、関心はあるものの、最新のところまで完全に消化しているとは言いがたい。英語中心主義的なスタンダードの押し付けでないことは理解しているが、日本語をはじめとするさまざまな言語からのフィードバックを経て間口を広げた結果、理論が抽象化して、個々の理論的主張と取り扱おうとしている言語事実との関係がますます見えにくくなっているような気がする。不勉強の言い訳と言われればそれまでであるが、他の言語からのフィードバックが減って視野狭窄に陥るのは得策ではあるまい。
熊本大学着任後10年を超えたので、卒論や演習での学生指導の中で繰り返し意識させられた言語学上の諸問題をいくつかまとめてみる。関連分野の研究者からのご教示を歓迎する。
>> 比較言語学的観点からの方言研究
方言文法の記述や方言語形の分布に関する言語地理学的研究は進展を見せているが、異なる分布を示す二つの形のうちいずれが保守形でいずれがイノヴェーションを経たものとみなすべきか、という比較言語学的なアプローチは、アクセント研究のような一部の分野を除けばまだすくないのではないだろうか。日本語方言の系統分化に関する問題(たとえば「九州方言」はなんらかのイノヴェーションの束によって定義された系統上の分枝とみなせるかどうか)の議論は、このようなアプローチが不可欠であろう。日本語系統論にとって、琉球方言の研究は重要であるが、琉球方言祖語が(母音音韻の保守的な特徴が示唆するように)本土方言の系統分化がほとんどない状態で分枝したのか、それとも本土のいずれかの方言と近い関係にあるのか、といった国際的にも関心の深い問題に答えるためには、本土方言側の系統論がある程度確立されていなければならない。
>> 二型アクセントの比較言語学的研究
九州本土の二型アクセントには、長崎方言のように文節の前から数えた位置でアクセント核が決まるタイプと、鹿児島方言のように文節の後ろから数えた位置でアクセント核が決まるタイプがある。この二つのタイプは個別に発生したのであろうか、それとも単一の「祖」二型アクセント(おそらく長崎タイプ?)があり、一方から他方がイノヴェーションとして生じたのであろうか。牛深方言のアクセントに関する卒論で、鹿児島タイプと長崎タイプの混成のようにみえる体系があることを知ったが、これをどのように解釈すべきか、ということにもつながる問題である。牛深のアクセント体系は両タイプの「混成」なのだろうか。それとも、一方から他方が発生する途中の段階を示していると考えるべきだろうか。
アクセント研究は上でも述べたように比較言語学の観点からのすぐれた研究が多い分野であるが、中心となってきたのは型の統合や移行に関する研究であるように思う。音声的実現形の変化の過程はどうだったか、というアプローチは、二型アクセントや崩壊アクセントについても可能なはずである。
>> アクセント崩壊の比較言語学的研究
九州には「アクセントを持たない」とされる方言が広く分布しているが、このような「無アクセント方言」といえども発話のピッチパターンを一意的に決定する何らかの原理は存在しており、ただその単位がいわゆる有アクセント方言とは異なり、文節ではなく何らかの統語的単位を構成する連文節になっているのだ、ということは、近年のアクセント研究が明らかにしている。このことは、熊本県北部方言や宮崎方言のアクセントに関する卒論からも確かめられる。尾高(頭高も付随)のピッチパターンをもつ宮崎方言の場合には、都城方言などで知られる文節単位の一型アクセントのアクセント単位が連文節に拡大したものだ、とうかがわせるような卒論もある。ただ、このような発生パターン仮説は、隣接地域に一型アクセント方言を持たない無アクセント方言のアクセント崩壊に適用するにはやや無理があるように思われる。では、いったい、アクセントの崩壊はどのように進行するのであろうか。
崩壊アクセント地域に隣接する佐賀県西部の方言の曖昧化した二型アクセントに関する卒論では、どうやら助詞「の」に終わる文節(この方言では主格節)がアクセントの型の区別を失わせて後続の文節とのアクセント単位の融合を引き起こしているように解釈できるデータが得られた。これは、二型アクセントからの崩壊パターンとして一般化できるだろうか。
九州の「崩壊アクセント」は地理的に連続した分布をなしており、単一起源の可能性も否定できない。単一の起源であるとすれば、宮崎タイプの尾高パターンと、有明海側の平板パターンはどちらが古いと考えられるだろうか。そもそも、二つのパターンの中間の地域ではどのような音声的実現形があるのだろうか。
>> 九州方言の音韻の統計的研究
1990年から担当してきた調音音声学の講義で気になっていることが二つある。ひとつは、語頭の有声閉鎖音で、単独の音節の発音ではほとんど無声無気音に聞こえる発音になる学生が毎年3割はいる。最初は「濁音はカワイくない」という価値判断でもあるのかと思ったが、男女差はほとんどなさそうだ。出身地についても、とくに明確な傾向があるようには思われない。ただ、年輩の方のあまり共通語化しようとしていない発話で、会話の流れの中でもはっきり無声に聞こえる発音を熊本市内で耳にしたこともあるので、地域方言として無声化発音の中心となっている地域がある可能性はある。(いわゆる「にゃー、しゃー」の新方言のように。)
もうひとつは、サ行摩擦音の調音で、歯摩擦音で発音するいわゆるlispingを耳にすることがよくある。これは卒論でもどのように分布するかの研究があるが、個人差としか言いようのない結果になっていた。舌端的な(舌先が平らな)sの調音が支配的な日本語では、舌の位置を少しずらせばこの発音になるから、現われやすい発音ではあるはずであるが、他人からよく指摘され自覚しているという被験者もあった。
いずれにしても、九州だけの特徴なのかどうか、他の地域からの情報もほしいところではある。(たとえば、『以上でよろしかったですか?』のように、全国的に分布しているものでも、自分が使わない用法は地域方言の特徴だ、と判断しやすいので。)
>> (方言文法-準備中)
大学教育も、サービスとしての質の向上が求められる時代に入っている。教壇はステージ、毎回、わかりやすくかつ学生を安眠させないような緊張感のあるパフォーマンスを実現すべく不断の努力を続けねばならない。十年一日のジョークや脱線は禁物。というわけで、賞味期限切れの持ちネタをこの欄に順次お蔵入りすることにします。
>> medium
media は「ミーディア」と読み、medium の複数形で、介在するもの、媒体という意味。インドで medium といえばいちばんよく使われるのは、English-medium とかHindi-medium とかいった表現で、これは新聞や放送ではなく、ましてや聖なるビフテキの焼き具合でもなくて、学校で先生が使う言語のこと。インドに長期間いれば、かならずといっていいほど聞かれることは、What is the medium of instruction in Japan? つまり「学校は何語?」小学校から大学までJapanese-medium だと言うと怪訝な顔をされる。インドの場合、上の学校に行くほど English-medium の比率が増え、理系だとほぼ100パーセントといってよい。だから都市部で小学校から英語の学校を出た上流階級の出身者が有利、ということになる。最近は、都市部の労働者や農村でも子どもを幼稚園や小学校からEnglish-medium school で勉強させる親が増えている。
もうひとつ、medium で忘れられないのは「コメ」。日本に来たインド人が一様に驚くのは、日本人が白い御飯をそのまま食べること。「だってコメはただのmediumじゃないか。味がない。」つまり、インド人にとっての料理とは(さまざまに配合された)カレーの味なのであって、コメはそれを指先ですみずみまで染み込ませる土台にすぎない、というわけだ。そう考えると、インドの乾燥地のムギ文化と、コメ文化との違いは、我々が考えるほど大きくないのかもしれない。チャパティーにしても、かならずカレーをつけて食べる、という点ではコメとまったく同じだからだ。考えてみれば、日本人も日本人で、パンをコメのようにして、パンとおかず、という組合せで食べている。
インド人にとっては、言語も単に、情報を載せるメディアに過ぎない。英語でしゃべるからといって、アメリカナイズされた国際派ということもない。ヒンドゥー至上主義を英語で延々とまくしたてられることもあるし、テルグ語の地位向上を叫ぶ政党の幹部の子供がEnglish-medium school 出身でテルグ語が読めない、というのもあたりまえ。
ちょっと酔っ払ったときならば
>> 辻潤「惰眠洞妄語」
鋭い嗅覚と触覚―それはいつの時代でも科学と文芸とに恵まれている。哲学、宗教、政治にはカビが生えて腐れかけている。かれ等の官能は盲ている。是非もない。村山の「マヴオ」がスピツベルゲンなら、エイスケの「バイチ」はパタゴニヤだ。勿論かれ等は初めから芸術などという古い観念を破壊しているのだ。日本のヤンゲスト・ジェネレーションの最も進んだ精神がどんな方向に向かっているか? Only God knows!
もっと酔っ払うとエンドレスで。
>> 「辻潤から買った詩」
みなとは暮れてルンペンの
のぼせ上がったたくらみは
藁でしばったほしがれい
犬に食わせて酒を呑み
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